SPECIAL REPORT 2002.05.16

【CMSC南茨城事務局通信番外編その6】 ~「CMSC南茨城」誕生回顧録~

茨城に、CMSC復活までの道のり

CMSC南茨城 事務局長:中田由彦

EVOLUTION-VI 「復活へのカウントダウン?」 – 1993年 ~1995年 –
CMSC南茨城
中田事務局長

会社の取引先の部品商さんから、ずいぶんとランサーターボの部品についての問い合わせがありました。
「あのクルマのほかにも、まだまだ走っているんだなあ」と感心していました。
しばらくしてから青いストライプのランサーのことを部品商の方に話してみたところ、「そのクルマの部品ですよ。あ、でも今度新しいランサーにしたって。俺の同級生なんですよ」
なーんで、ワタシから買わないのよー!!

(だってそのころは中田さんのこと知らなかったから…とは本人)
やがて彼はダートラの帰りや時間のあるときにショールムに顔を出してくれるようになりました。

彼は額賀(ぬかが)君と言いました。

直接係わるモータースポーツ活動がなかった時期でしたが、 まもなく登場するランサーエボリューションによって、各支店からの問い合わせへの対応や競技車両製作のバックアップは忙しくなりました。

ロールバーやスプリングを組むのにも事前に審査書類を提出してからでなければナンバーが取れませんでしたからね。エボリューションIIIぐらいまでは、審査書類のほとんどは私が作成していました。

左から現CMSC南茨城会長の額賀氏、
軍司氏、寺田氏【2000年撮影】

この時期、私の気持ちに少しだけ変化がありました。

決してCMSC復活に向けての情熱が失せてしまったわけではありません。それまではどちらかと言えば、「三菱の人間として、自分が(モータースポーツの)ユーザーを牽引して行くんだ」と言うような気負いがありました。それが、「現在のCMSCはユーザーの組織だろう。であれば、自分もユーザーのひとりとして係わって行こう」と。

自分がリーダーシップを発揮するのではなく、リーダーとなるユーザーをサポートして行こうと。

見聞を広めようと(いや、やっぱり、オモシロそうだから)海外ラリーの見学にも出かけていたのもこの頃です。が、心配なことも起きていました。須賀さんが深刻な病気で仕事を休まざるを得なくなっていたことです。

時々ラリーアートに電話を入れて様子をうかがっていましたが、須賀さんの1日も早い復帰を願っていたのは私だけではなかったはずです。

95年の香港北京ラリー、須賀さんがいました。以前よりだいぶスリムになってしまっていましたが帰ってきてくれました。須賀エボリューション?現在皆様おなじみの「おひげ」の須賀さんです。

私以外にも、茨城にCMSCを復活させようとしている人物がいました。

94,95年の全日本ジムカーナチャンピオン、川又正英君です。実は私と川又君は幼なじみで、気がつけば同じ世界にいたのです。もっとも、自分の才能の無さから、とっととドライバーをリタイヤしてしまった私と違ってスター選手です。それぞれにCMSC復活を目的として別々の行動をするよりも、一緒に行動する方が良いに決まっています。「ラリーアート・ドライバーオブザイヤー」を受賞していた彼の意向を伝えてきたのは他ならぬ、須賀さんでした。

川又君の名声を利用して、というような気持ちはありませんでしたが、彼が合流することで復活は「秒読み」に入るかと思われました。しかし…

つづく

注) 本稿はもともとCMSCとしては最も新しい「南茨城」のクラブ員向けに、自身が属するクラブの生い立ちを覚えておいてもらいたいとメール配信していたものをCMSCホームページ企画用に改稿したものです。

【CMSC南茨城事務局通信番外編】

EVOLUTION-I 「エンジン始動」 - 物心 1989年夏 – へ
EVOLUTION-II 「いきなり、挫折!?」  - 1989年夏~1989年末 – へ 
EVOLUTION-III 「電話の相手は」  - 1990年~1991年 – へ
EVOLUTION-IV「頼れる兄貴は心配性」 - 1991年 – へ
EVOLUTION-V 「今どきランサーEXターボ!?」 - 1990年 – へ
EVOLUTION-VI 「復活へのカウントダウン?」 - 1993年~1995年 – へ
EVOLUTION-VII 「10年目のエボリューション」 – 1998年、夏… そして今… –

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