SPECIAL REPORT 2002.05.09

【CMSC南茨城事務局通信番外編その5】 ~「CMSC南茨城」誕生回顧録~

茨城に、CMSC復活までの道のり

CMSC南茨城 事務局長:中田由彦

EVOLUTION-V 「今どきランサーEXターボ!?」 – 1990年~ –
CMSC南茨城
中田事務局長

話は少し戻ります。
90年はフォーミュラ・ミラージュをメインに、並行してギャランでのラリーも行っていました。
ギャランのドライバーは88年のミラージュカップに出場されていた藤枝紀夫さんです。もともとレース出身ですが、ローカルイベントのターマックラリーではすべてのSSで一番時計をマークしてしまうほどでした。フォーミュラ・ミラージュにもクルーとして同行してもらっていましたが、やはりドライバーとしてサーキットに帰りたくなったのでしょう。

91年はフォーミュラ・ミラージュとともに、ミラージュインターナショナルラリーアートカップにも参加することになりました。4月の開幕戦はFISCOです。フォーミュラはちょっとお休みして、万全の体制でミラージュカップに臨んだはずが・・・重量が足りなーい!! 88年とは最低重量が変わっていましたからね。これは私のポカとしか言いようがありません。
「アナタがいながら、ダーメでしょ!!」って、宇賀神さんにもこってりと絞られました。

ミラージュインターナショナルカップ開幕戦

フォーミュラ・ミラージュをスキップしたのにはちょっとしたワケがあります。
この年のパリダカからワークスパジェロのサスペンションが二輪レースで実績のあったスウェーデンのオーリンズに変わりました。
フォーミュラのドライバー吉田さんはバイクショップを経営しており、オーリンズの日本代理店となった会社とは古くから取引がありました。我々もフォーミュラ・ミラージュのサスペンションセッティングの幅を広げるため、というより、なんだか面白そうだから(こんなのばっかりだなぁ)と、スタンダードのサスペンションをスウェーデンに送っちゃっていたからです。F1からアメリカのCARTに移ったナイジェル・マンセルよりも早く、オーリンズを4輪フォーミュラに導入してたんですよ。もっとも、なかなか出来上がってこなくて、しばらくは新たに手配したスタンダードセットで戦い(楽しみ?)ましたけどね。

開幕戦をスキップしたため、前年のゼッケンが他のチームに移りました。おかげで増岡さんとはピットもパドックもいつも隣同士。(増岡チームが31、私たちが36で、32から35はいませんでした)
意外に思われるかもしれませんが増岡チームも少ない人数で、FISCOのように広いサーキットだと練習や予選が終わってもピットクルーがパドックに戻るまで待たされることもあります。
フォーミュラの予選は専従に準じたピットクルーにまかせて、(開幕戦のようなポカのないよう)ミラージュカップ車のフォローに回っていたため、パドックには早めに戻れましたので増岡さんのクルマを指定位置に納めるのを結構お手伝いしましたね。

ミラージュインターナショナルカップ
筑波にて、コース水没

91年のレースは雨にたたられまくりでした。
4月の開幕戦もウエットでしたし(見学になっちゃったけど)、7月の筑波は決勝前夜の雨がヘアピンの手前を池にしてしまい各チーム総出で水をかき出し、9月のFISCOは日曜日には台風直撃の予報(これがズバリと当たった)でフォーミュラ・ミラージュは延期、ミラージュカップは予選決勝を同日開催。この時は開幕時の失策を挽回すべく、土曜日決勝実施の正式決定を待たずにフォーミュラ・ミラージュのクルーもミラージュカップに配置し直しこれが的中。

タイヤやエアツール用に初めて持ち込んだ窒素ガスのボンベを空にするぐらいの勢いで、決勝用にセットアップを短時間で済ませることが出来ました。

最終戦も雨と濃霧でクラッシュ続出でした。ミラージュは多重クラッシュに巻き込まれてレースを終えてしまったため、フォーミュラは「何があろうと完走」で皆一致していました。フォーミュラ・ミラージュもクラッシュ続出でしたが、最後尾で完走・・・が、上位3台にレギュレーション違反の改造があり繰り上げで入賞、「賞金弐萬円也」を獲得して私たちの2年間の三菱ワンメイクレースシリーズ挑戦は終わりました。

当時のフォーミラミラージュチーム員
左から中田事務局長、箱崎メカ、
ドライバーの吉田雅美氏、中央下が
大塚チーフメカ

フォーミュラは見事なカラーリングでラリーアートのカレンダーにも写真を使ってもらったり、手配したはずの宿が予約を忘れてしまい、100人以上収容できる大宴会場にたった8人で泊ったというような珍事件もあって、最高に楽しいレースに係わる機会を与えてもらったと感謝しています。

ミラージュカップでもCMSC勢との交流は深まりました。小川さん(山形)、フレッシュマンの郡司さん(栃木)、そしてCMSC埼玉チームとは、予選が上位でも下位でもなぜかいつもスターティンググリッドがご近所で、長井さんやドライバーの瀬在さんといつも顔を見合わせて笑っていました。

このランサーEXターボの持ち主は。。。

 サーキットを離れてからのとある休日に自宅の近所を出歩いている時、紳士服販売店の従業員駐車場でブルーのストライプのランサーEXターボが目にとまりました。ギャラン、パルサー、レガシィといったハイパワー4WDが当然になっていた時期、「まだランタボで走ってるやつもいるんだ・・・」と一瞬思っただけで通り過ぎました。

このランサーの持ち主と長いつきあいになるとは、この時思ってはいませんでした。
つづく

注) 本稿はもともとCMSCとしては最も新しい「南茨城」のクラブ員向けに、自身が属するクラブの生い立ちを覚えておいてもらいたいとメール配信していたものをCMSCホームページ企画用に改稿したものです。

【CMSC南茨城事務局通信番外編】

EVOLUTION-I 「エンジン始動」 - 物心 1989年夏 – へ
EVOLUTION-II 「いきなり、挫折!?」  - 1989年夏~1989年末 – へ 
EVOLUTION-III 「電話の相手は」  - 1990年~1991年 – へ
EVOLUTION-IV「頼れる兄貴は心配性」 - 1991年 – へ
EVOLUTION-V 「今どきランサーEXターボ!?」 - 1990年 – へ
EVOLUTION-VI 「復活へのカウントダウン?」 - 1993年~1995年 – へ
EVOLUTION-VII 「10年目のエボリューション」 – 1998年、夏… そして今… –

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