SPECIAL REPORT 2002.04.11

【CMSC南茨城事務局通信番外編その1】 ~「CMSC南茨城」誕生回顧録~

茨城に、CMSC復活までの道のり

みなさんは10年前、何をしていましたか?
CMSCクラブ員の中には中学生だった、高校生だった、という方もいるでしょう。
茨城にも1970年代にCMSCがあったことを覚えていらっしゃる方も、ごく一部ではないかとは思います。
私は10年とちょっと前、「コルトモータースポーツクラブを茨城に復活させたい」と考えていました。 現在、CMSCの仲間として迎えられて3年余りが経過しましたが、あらためて復活に向けて奮闘していた当時のことを思い出し、少しは苦労もしたけれど、あきらめないで本当によかったと思っています。
本稿はもともとCMSCとしては最も新しい「南茨城」のクラブ員向けに、自身が属するクラブの生い立ちを覚えておいてもらいたいとメール配信していたものをCMSCホームページ企画用に改稿したものです。

CMSC南茨城中田事務局長
EVOLUTION-I 「エンジン始動」 - 物心~1989年夏 –
幼少の中田事務局長と三菱コルト

私は、父親が三菱ふそうに勤めておりましたので、物心ついたころから自然と三菱車に親しむことのできる環境にありましたが、はっきりと三菱のモータースポーツを意識したのは、サザンクロスやサファリでのランサーの勇姿でした。自家用車をランサーに買い換える時に、あれこれ注文をつけたのを覚えています。
これまた自然な流れなのでしょうか、三菱自動車に86年入社し、翌年末には初代ギャランVR-4が発売されました。

1988年半ばだったでしょうか。
人事・総務担当常務、人事部長との懇談が東京本社地下の社員食堂(!!)で開かれました。
常務が何人かに声をかけてくださったのですが、私もそのひとりに選ばれるという光栄に浴しました。 こういうときは普通、仕事に対する意欲とか、まあ優等生に徹したアピールするものでしょうけれど、 篠塚さんのパリダカ、アジパシでの活躍、F1ブームなどもあってモータースポーツがマニア以外の人たちにも注目されるようになってきていた時期で、新車PRの手段としても有効だと考えていた私は「CMSCを茨城に復活させたいと思っています」と申し上げてしまったのです。
当然周囲はフリーズ、ですよね。黒旗掲示で強制リタイヤさせられても文句は言えません。しかし…
「きみは学生のころから他とは違った角度からものを見られるタイプだったねぇ。頑張りなさいよ」
感激しました。(もっとも、常務は半分あきれていらしたかもしれません)
この、常務の一言に後押しされるように(なんと勝手な!!)VR-4やミラージュサイボーグなどを武器にして、時間を作っては、茨城県内のモータースポーツ関係者を訪ね歩く日々が始まりました。

三菱自動車の営業本部も同様にモータースポーツを販売促進に活用しようと色々な施策を展開しはじめました。88年末、「筑波サーキット」に出張命令がありました。
そこで何をやったかと言うと、ジムカーナ、しかもランサー1600の4WD(C73A)、これがまた曲がらない!
でも中谷明彦氏の隣に同乗し、この人は人間じゃないと思いましたね、ホントに。(中谷さん、ゴメン)

同じころ、筑波サーキットの「東京プロダクションカーレース」では衝撃的なデビューを飾った車がありました。「ミラージュ・サイボーグターボ」(C53A)です。
P3000クラスのサバンナRX-7(SA22C)の公認が年内一杯で切れるというところでの登場でした。
私は地元チームにコーディネイターとして招かれ、翌年の東京プロダクションカーレースに出場させるためにミラージュカップのフレッシュマンレース用のベース車を手配しました。

P3000仕様のミラージュ

受付は終了していましたが、ラリーアートの尽力で、開幕戦に間に合わせることは出来ました。
現在では「ラリーアートピット」となっている北総三菱さんもラリーアートカラーのミラージュを参加させており、ライバル心メラメラでした。
CMSC山形の小川さんとの出会いもプロダクションカーレースの緒戦でしたね。
今でこそ「スーパー耐久の顔」として活躍されていますが、ちょうどこのころ、ラリーからレースにウエイトを置かれるようになっていた時期ではないかと思います。とても優しい方でした。もちろんそれは今でも変わっていないですね。

益子治社長(当時:左側)と外川会長(当時:右側)

89年夏、筑波にミラージュカップがやってきました。プロダクションカーレースも同日です。
ミラージュカップは豪華なホスピタリティが評判となっておりインフィールドのホスピタリティエリアに向かいました。飲み食いが目当てではなく(いや、ちょっとは、それもあったなぁ)、ご挨拶しておきたい方がいらしているからです。外川一雄CMSC会長(当時)です。

テストアンドサービスの益子治社長(当時)とご一緒でした。私の世代にとって「雲上人」が二人揃っていらしたわけです。レーシングチームのコーディネイトをしていると言っても、お二人からすれば小僧もいいところ。
パラソルの下でいすに腰掛けたお二人にご挨拶申し上げると、よくぞ来てくれたと、いろいろなお話を伺うことが出来ました。
私は芝生の上に「正座」してしまいました。周囲からは変なヤツにしか見えなかったかもしれません。 それでも、時間の許す限り三菱(に限らず、日本の)モータースポーツの重鎮に自分のモータースポーツに対する思いを直接伝えることが出来るのですから、恥ずかしいとは思いませんでした。
つづく

(CMSC南茨城 事務局長:中田由彦)

【CMSC南茨城事務局通信番外編】

EVOLUTION-I 「エンジン始動」 - 物心 1989年夏 – へ
EVOLUTION-II 「いきなり、挫折!?」  - 1989年夏~1989年末 – へ 
EVOLUTION-III 「電話の相手は」  - 1990年~1991年 – へ
EVOLUTION-IV「頼れる兄貴は心配性」 - 1991年 – へ
EVOLUTION-V 「今どきランサーEXターボ!?」 - 1990年 – へ
EVOLUTION-VI 「復活へのカウントダウン?」 - 1993年~1995年 – へ
EVOLUTION-VII 「10年目のエボリューション」 – 1998年、夏… そして今… –

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