【CMSC南茨城事務局通信番外編その2】 ~「CMSC南茨城」誕生回顧録~
茨城に、CMSC復活までの道のり
EVOLUTION-II 「いきなり、挫折!?」 - 1989年夏~1989年末 –
筑波のプロダクションカーレースに次々とミラージュサイボーグターボが参入してきました。
89年の筑波9時間耐久レースに出場を決めると三菱陣営の一翼を担うべく、益子社長(当時)のご好意で耐久レース用パーツを、ラリーアート森田シニアマネージャー(当時)からはユニフォーム用にウエアを提供いただきました。しかーし!!プロフェッショナル化しつつあった9耐では力及ばず予選落ち…あちゃー…
そんなこんなで、レースをメインに多くの三菱ユーザーからアドバイザーとして頼ってもらえるようになってきており、初めてCMSCとしての集結を呼びかけました。しかし、アマチュアとは言えレースエントラントの場合、クラブマン意識はそれほど高くはありませんでした。
金銭的、物品的支援だけを期待するような方々も少なくはなく、モータースポーツの参加が、いかにお金がかかるものでも、私自身、基本は自己責任と思っています。 「それは、違うだろう…」そう感じた私は、この時は茨城にCMSCを復活させることを先送りせざるを得ませんでした。
つらいと思えることばかりではありませんでした。
この年はギャランVR-4がマイナーチェンジで205psから220psにパワーアップしましたね。
茨城県で最も古い、かつての「日本アルペンラリー」で優勝したこともあるクラブに所属する大塚さんというベテランナビからラリー車のオーダーを受けました。VR-4RSの納期は未定、などと言われて稼動間もないダイヤモンドスター(エクリプスの工場ですね)出張から戻ってみると、何時の間にか登録完了???ラリーアートが自社の生産枠を割いてくれたようでした。
このクラブの一部は88年にミラージュインターナショナルラリーアートカップに出場していました。
そのメンバーと、89年末「FN2000」として公開され、程なく日本初のワンメイクフォーミュラレースと発表された「フォーミュラ・ミラージュ」に出場することになります。
チーフメカニックとなる先のVR-4のオーナー、大塚さんが
「中田さん、このエンジンのスペック、ディメンション、間違いなく三菱だよ。一緒にやろうよ」
と、あまりにもあっさりと、フォーミュラのチームが出来上がりました。
実はこの時はまだ正式発表のない段階です。にもかかわらず、ドライバーはすでにオーダーしてるって!?
そう。何を隠そう、フォーミュラ・ミラージュのオーダー第一号は私たちだったんです。
フォーミュラ・ミラージュに参加することでラリーアートとの結びつきは更に強くなっていくことになります。
当時のラリーアート社長、近藤昭さん、そして現在我々の支援をしてくださっている須賀さんと出会うことになるのです。
つづく
(CMSC南茨城 事務局長:中田由彦)
注) 本稿はもともとCMSCとしては最も新しい「南茨城」のクラブ員向けに、自身が属するクラブの生い立ちを覚えておいてもらいたいとメール配信していたものをCMSCホームページ企画用に改稿したものです。
【CMSC南茨城事務局通信番外編】
EVOLUTION-I 「エンジン始動」 - 物心 1989年夏 – へ
EVOLUTION-II 「いきなり、挫折!?」 - 1989年夏~1989年末 – へ
EVOLUTION-III 「電話の相手は」 - 1990年~1991年 – へ
EVOLUTION-IV「頼れる兄貴は心配性」 - 1991年 – へ
EVOLUTION-V 「今どきランサーEXターボ!?」 - 1990年 – へ
EVOLUTION-VI 「復活へのカウントダウン?」 - 1993年~1995年 – へ
EVOLUTION-VII 「10年目のエボリューション」 – 1998年、夏… そして今… –
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